紹介文
狩猟民族であるブッシュマンの生活を描きながら、私達の生きる社会を見直すきっかけを与えてくれるそんな一冊です。
現在の資本主義や農耕社会が始まる以前の狩猟社会の価値観を理解し、考える事で現代に生きる我々の生き方を考えさせられる本となっています。
有史以前の南アフリカの歴史や人類学に興味がある人にはもちろんですが、現代社会のあり方に疑問を抱いている人にもオススメできる本です。
印象的な文
人は豊かさや満足、成功をどう理解しているのか。そして発展や成長、進歩をどう定義しているのか。
彼らの幸福になるための方法は、ほんのわずかな物質的欲求しかもたないことで、そのささやかな欲求を満たすには限られた技術があれば事足り、よけいな努力は必要なかった。狩猟採集民はすでに手にしているものより多くを望まないというシンプルな方法によって満足している、とサーリンズは説明する。別の言い方をすれば、狩猟採集民が満足しているのは叶うはずがない願望に支配されないからだ、というのが彼の考えだった。
私や白人農場主が、時間は直線的で有限であり、絶えず起こる変化にそれが裏づけられていると考えるとしたら、ツェンナウ※1は、時間(少なくとも最近まで)は循環的・周期的だと考えている。季節の訪れは予測可能であり、太陽や星、月の動きは機械のように規則正しいからだという。
※1筆者がインタビューしたブッシュマンの1人
新しい時代では、「現在」を理解するには、まったく予想不可能な異なるできごとを因果関係でつなげていく必要があるが、古い時代ではそんなことをしなくても「いま」を理解できる。過去と未来をほとんど重要視しない世界では、死もすぐに忘れられ、死者の身体と記憶は葬られた砂山の下に消えてなくなり、残された霊魂がうろついている。先祖がどんな人物かを基準にして自分が何者かを探ろうとしたり、過去に遡って古い家系をもとに自己のアイデンティティ、あるいは権利を考えたりする者はいない。そうする必要がないからだ。
もしハッザやブッシュマンなどの狩猟採集民が当座の必要を満たすためだけに行動しているとしたら、彼らはそれを行う自信を何から得ているのだろうか? そこには、必要なときにいつもほしいものが手に入るという、自然環境に潜む摂理と自身の能力に対する強い信頼があることは間違いないだろう。
祖先の代から暮らす土地に残ることを選び、周囲で拡大を続ける資本主義経済にある程度かかわりながら、ジュホアン※2はいまもなお「容易に満たされるわずかなニーズ」で暮らし、「原初の豊かさ」を現代の形に変えてきた。ニャエニャエ※3の外で仕事を探す不安定な状況よりも、比較的静かな村の生活を選ぶ者が多いことからも、それはあきらかだろう。しかし現在、彼らはほかのナミビア人と比べて物質的に困窮していることを強く感じている。それほど多くもたなくても満足することは可能だが、しょっちゅう空腹を感じているのに、他人は派手な四輪駆動車を走らせたり、毎晩肉を食べたりしているとなると、自分が豊かだと感じるのは相当難しい。また、ニャエニャエの生活にはいつ壊れるかわからないもろさが感じられ、何らかの変化を黙って受けいれざるをえないだろう。 だが少なくとも、いまのところ狩猟採集がニャエニャエで重要な役割を果たしている事実は、狩猟採集生活の驚くべきレジリエンス〔したたかな柔軟性〕を物語っている。
※2ブッシュマンの一族の1つ
※3ブッシュマンが住む村
ゴミかどうかを判断するのは学習によって身につく行為であって、もっと大きな町に住んでいれば必要不可欠なことだし、公共衛生の問題が効果的な廃棄物処理と関係があることはますます明白になっている。しかし、ツムクウェ※4のゴミに観光客が反応するのは、衛生状態が悪いと腹を立てているからではない。観光客の多くはニャエニャエと自分たちの考える理想的な自然を結びつけ、理想的な自然のなかの生き物を体現するブッシュマンをイメージしているからだ。
※4ブッシュマンが住む村
ジュホアンのような狩猟採集社会ではそうではない。彼らにとって世界に存在するあらゆるものが自然であり、人間世界のあらゆる文化は動物世界の文化であり、「野生」の場所も暮らしの場となる。そのためジュホアンは、ゴミに苛立っても汚染とは思っていない。少なくとも観光客と同じようには思っていない。彼らの大半は、秋を迎えるカラハリの木々の落ち葉か、ホールブームの近くの地面に散らかるバオバブの実の割れた殻ぐらいにしか不快に感じないのだ。
しかし、この短期的な変化に注目すると、リーの調査が示す最も重要なポイントがぼやけてしまう。それは、ジュホアンが際限のない食料探しに夢中にならず、いちばん厳しい月であっても必要以上の労力を費やさずに、短期的な最低限のニーズを満たすという暮らしを受けいれていることである。言いかえれば、食料探しが大変なときでさえ、環境の豊かさへの信頼を決して失わないのだ。同様に重要なのは、食べ物が潤沢にあるとき、私たちはその豊饒に浸ったり、腹いっぱいに詰めこんで短期的な利益を最大化しようとしたりすることがよくあるが、ジュホアンはそうしなかったことだ。彼らは、日常の食料探しにほとんど労力を費やさないですむことをきちんと理解しているため、足る量だけ食べる。
カラハリは、いまよりもはるかに動物の個体数密度が高い時代があった。オカヴァンゴ・デルタの湿地によって現在も命を支えられている動物の多さを考えると、浅い巨大な湖が数多く存在した一万一千年前の北部カラハリに、どれほど多くの動物がいたか想像できるだろう。五十年前でさえ、カラハリの広大な乾燥した平原では、確立されたルートに沿って季節的な水源まで移動するヌーやスプリングボック、ハーテビーストの膨大な群れが育まれていた。ボツワナの南部カラハリに住むコーン・ブッシュマンと中央カラハリ動物保護区の東端に住むグイ・ブッシュマンの脳裏にはいまもなお、地平線の彼方を群れが途切れることなく三、四日にわたり通り過ぎるようすを眺めた記憶が残っている。そうした群れは、ボツワナの「牛肉」への愛によって一掃された。
ジュホアンの考えでは、動物の視点をもつというのは、動物に対する憐れみや同情を感じるということではない。存在のさまざまな仕組みにおいて、幸福や死、苦痛は宇宙の秩序の一環にすぎないと理解することだ。宇宙の秩序では、あらゆる動物は自身の役割を受けいれている。多くは肉であり、それ以外は狩人である。人間やイヌなどのように、状況によって肉にも狩人にもなるものもわずかにいる(ヒョウは人間とイヌの肉はとりわけうまいと知っている)。
本来コミュニティは、だれもがちょうど足りる量で暮らしているため、つながりが保たれている。ジュホアンがいやというほど理解しているように、余剰は権力と支配の源になる。
ジュホアンのような狩猟採集民が自然環境の摂理に揺るがぬ自信をもち続けたとすれば、新石器時代の農耕牧畜民の生活は恐れとの闘いだった。
現代の先進国で暮らす人々の大半はたとえ大金持ちでなくても、自分は貨幣を上手に使うと考えているだろう。また多くの人が自分は金儲けに長けていると思っているようだ。しかし貨幣はどこから来るのか、その価値は何が決めるのか、経済成長とは何か、といった疑問に適切な答えを出せるのは数少ない選ばれた人だけだろう。
マルクスは、人間の本質は社会や個人の満足につながるやり方で自発的かつ創造的に生産することだ、と考えていた。マルクスにとって生産したいという衝動は人間に欠かせない性質であった。だが資本主義はものを生産する行為から得られる深い充足感を人々から奪っている、とマルクスは考え、資本主義を懸念した。ケインズのポスト労働社会のユートアと違い、マルクスの共産主義的ユートピアは、だれもが労働し続けるが、労働する者自身が「生産手段」を所有することによって解放され、労働から深い充足感を得られる世界だった。狩猟採集社会を通じて見えたことは、マルクスも新自由主義の経済学者も人間の本質を誤って捉えているということだ。人間は労働によって定義されるのではなく、別の充足感のある生き方を十二分に送れる能力があるのだ。
感想
資本のというものを第一、あるいは重要視する現代の価値観や考え方というものが様々な考え方の1つに過ぎないという事が改めて認識できる本でした。余分な富や生産する喜び、仕事をする喜びを求めないという考え方は現代においてあまり考えられない思想ですが、この様な考え方もあるのだと知るだけでも何か肩の荷がおりる様な気がします。
また、時間は循環しているものであるや平等に対する独特の考え方も現代社会にはない考え方で非常に興味深かったです。ボリュームはありますが面白い本だと思いますので、興味ある方は読まれてはいかがでしょうか?