【要約】人新世の「資本論」(4章〜6章)

今日は人新世の「資本論」の4章から6章を私なりに要約していきます。解釈が異なるところもあるかもしれませんが、それはコメントをいたただき教えていただければと思っています。

はじめにと1章から3章の要約はこちらの方で行っていますので、よければ見てください。

では4章から6章を要約していきます。

第四章 「人新世」のマルクス

この章はなぜ今更マルクスという人物に着目するのかという理由に述べている章です。マルクス主義というのは、ソ連などイメージが付き纏い、日本では一般的に時代遅れで危険なものであるというイメージが強いかもしれないがそれは違うということこの筆者は述べています。

マルクスの再解釈に鍵となる概念の一つが、『コモン』あるいは『共』と呼ばれる概念だとしています。そして、『コモン』を専門家や国任せではなく、市民が民主的に拡張していくことが大事であるとしています。コモンの説明は別のところでしていますので、こちらを参考にしてください。

まず、筆者は初期のマルクスの考えについて言及しています。

初期のマルクスは進化史観に立っており、一般的なマルクスのイメージはここからきているとしています。

進化史観とは『生産力至上主義』と『ヨーロッパ中心主義』の2つが合わさった考え方であると定義しています。晩年のマルクスはこの2つの考えを改めていったことが研究から分かったとしています。

初期のマルクスは生産力至上主義であったが、その考えはある時から変わり始めたとしています。その時はリービッヒの『農芸化学』第7版で展開された「掠奪農業」批判に、マルクスが感銘を受けたあたりであるとしています。「掠奪農業」のような持続的でない農業に疑問を感じたマルクスはそこから、エコロジー研究も始めているとしています。

また、初期のマルクスにはヨーロッパ中心主義者に見られるような文言が見つかっているとしています。しかし、1868年以降、マルクスは非西欧や資本主義以前の共同体研究にも大きなエネルギーを割くようになったともしています。これらの共同体研究から最晩年のマルクスはヨーロッパ中心主義から決別していたことを明らかにしています。

以上の『生産力至上主義』と『ヨーロッパ中心主義』、この2つの考えからを初期のマルクスはしていましたが、そこから決別したことによって進化史観からも決別したことが明らかになりました。

では、次に進化史観を捨てた結果、どのような認識に辿りついたのかを考察しています。

マルクスは、伝統に依拠する共同体は、資本主義とはまったく違う生産原理に基づいていことを発見したとしています。その原理とは共同体が同じような生産を伝統的に基づいて繰り返しており、経済成長しない循環型の定常型経済の原理であるとしています。そして、この共同体社会の定常性こそが、植民地主義支配に対しての抵抗力となり、さらには、資本の力を打ち破って、コミュニズムを打ち立てることさえも可能にすると、最晩年のマルクスは主張していたと筆者は主張しています。

つまり、マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済だったということを筆者は言いたいのです。

筆者はマルクスの思想の変化を端的な図でまとめています。

人新世の「資本論」 (集英社新書) by 斎藤幸平 より引用

以上のことから、マルクスはその人生の前半には生産力至上主義のような強い考えを持っており、ここから今の日本に生きる人々は強い嫌悪感を抱いているが、その人生の後半期にはその考えを大きく変えていることを筆者は主張しています。

第五章加速主義という現実逃避

ここでは加速主義を否定しています。

加速主義とは

加速主義は、持続可能な成長を追い求める主義の1つですが、筆者の考えとは大きく異なります。加速主義は、資本主義の技術革新の先にあるコミュニズムにおいては、完全に持続可能な経済成長が可能になると主張します。例えば、技術発展によって資源採掘は宇宙からも可能になるかもしれません。このように指数関数的な生産力発展を推し進めていけば、あらゆるもの供給量は増え、価格は下がり続け、最終的には、自然制約にも、貨幣にも束縛されることのない、「潤沢な経済」になると加速主義は考えます。それが、「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」だと、加速主者は主張します。そこでは、人々は環境問題を気にすることなく、好きなだけ自由に、無償の財を利用することができるようになるだろう。それこそが、「各人はその必要に応じて受け取る」というマルクスのコミュニズムの実現だというわけです。

— 人新世の「資本論」 (集英社新書) by 斎藤幸平

https://a.co/h1pZljt

しかし、筆者はこの主張を否定しています。

その理由をこのように書いています。

“コミュニズムになったとしても、環境の持続可能性と無限の経済成長の両立が可能になることはない。  バスターニの加速主義的なコミュニズムにおいても、経済規模を二倍、三倍と拡大しようとするなら、結局は、より多くの資源採掘が必要となる。その結果として化石燃料から太陽光に切り替えたにもかかわらず、その差分が失われ、二酸化炭素が増大することになる。「”

— 人新世の「資本論」 (集英社新書) by 斎藤幸平

https://a.co/7q6595X

“加速主義は世界の貧困を救うためにさらなる成長を求め、そのために、化石燃料などをほかのエネルギー源で代替することを目指す。だが、皮肉にも、その結果、地球からの掠奪を強化し、より深刻な生態学的帝国主義を招くことになってしまうのだ。”

— 人新世の「資本論」 (集英社新書) by 斎藤幸平

https://a.co/0QhxVq1

更に論を進め、加速主義者は筆者の「脱成長」論を否定するだろうと予測しています。加速主義者は筆者の「脱成長」はローカルな小規模な運動にとどまらずを得ず、それゆえに、グローバルな資本主義に対して無力であると非難するであろうと。そして、加速主義者はこの問題を選挙によって解決できると言うであろうと筆者は予測しします。しかし、これもまた、間違いであると筆者は主張します。

このような「選挙主義」「政治主義」は将来のことは政治家や専門家に任せておけと言う考え方が支配的になり、素人はその権威の前に抑圧されることになるとしています。そして、このような考え方は「閉鎖的技術」を生み出すこともよくないことであるとしています。

「閉鎖的技術」とは人々を分断し、「利用者を奴隷化し」、「生産物ならびにサービスの供給を独占する」技術を指します。一方で「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術のことです。

「閉鎖的技術」の典型例として原子力発電をあげています。原子力発電は一般の人には管理できない技術であり、一部の人に電力や安全性の問題を託すことになります。そして、このようなグローバルな危機に「閉鎖的技術」不適切であるとしています。しかし、筆者は前近代的な生活に戻ることを主張するのではなく、今後、開発、発展されるべきは開放的技術であると主張しています。

第六章欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム

この6章では資本主義が定義する消費主義的な「潤沢さ」を否定し、コミュニズム的な「潤沢さ」とはどう言うことかと言うことの説明に入っていきます。

まず、一般的に物質的に豊かな社会を生み出したのは資本主義であるとされているが、それは誤解であると筆者は主張します。

例えば、土地です。ニューヨークなどの土地は一室数億になり、誰も住んでいない投資対象になる一方でホームレスが多いのも事実です。これを豊かさと呼んでいいのかと筆者は投げかけます。

ここで重要なポイントは、「本源的蓄積」が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点であると筆者は言います。「本源的蓄積」とは、一般に共同管理がなされていた農地などから農民を強制的に締め出すような「囲い込み」のことを指します。そして、この本源的蓄積を行うことが資本主義の1つの性質であり、これにより、持つ人と持たない人を生み出し、持たない人の生活の質を低下させると言います。そして、「本源的蓄積」が始まる前、共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであり、豊かな社会が形成されていたはずだと筆者は主張します。

これは以前から論じられており「ローダデールのパラドックス」と呼ばれているそうです。その内容は「私財(個人の資源)の増大は公富の(みんなの資源)の減少によって生じる。」という逆説です。例えば、川や井戸から水が潤沢にあるときは希少性はない、公富の状態である。しかし、水源地の「囲い込み」を行い、水を商品化すれば「私財」ふえ、「公富」は消えます。

もちろん、共有材、「公富」を好き勝手に使っていいわけではないと筆者は言います。そうすれば、コモンズの悲劇が生まれるからです。一定の社会的規則のもとで利用しなければならなかったし、違反者には罰則規定もありました。だが、決まりを守っていれば、人々に開かれた無償の共有財だったと筆者は言います。

つまり、筆者のコモンズ論をまとめると、コモンズとは、万人にとっての「使用価値」です。万人にとって有用で、必要だからこそ、共同体はコモンズの独占的所有を禁止し、協同的な富として管理してきました。商品化もされず、したがって、価格をつけることもできなかったのです。コモンズは人々にとっては無償で、潤沢だったのです。もちろん、この状況は、資本にとっては不都合です。ところが、なんらかの方法で、人工的に希少性を作り出すことができれば、市場はなんにでも価格をつけることができるようになります。そう、「囲い込み」でコモンズを解体して、土地の希少性を作り出したように。そうすれば、その所有者は、利用料を徴収できるようになります。土地でも水でも、本源的蓄積の前と後を比べてみればわかるように、「使用価値」(有用性)は変わらない。コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのです。希少性の増化が、商品としての「価値」を増やすのです。その結果、人々は、生活に必要な財を利用する機会を失い、困窮していきます。

このように筆者は主張しています。

そして、そして潤沢さを回復させるための方法が「コモン」であると主張は続きます。そして、「コモン管理のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理するという点である。」と言います。例えば、電気これも原子力などの国の管理が必要になるものではなく、水力や風力など市民で管理できるものに変えようと言い、筆者はこれを「〈市民〉営化」と読んでいます。

また、電力や水だけでなく生産手段そのものも「コモン」にしていく必要があるとしています。労働者たちが共同出資し、生産手段を共同所有し、共同管理する「ワーカーズ・コープ」の考えを普及させる必要があるとしています。そうすれば、資本家や株主に頼らない生産が可能になるとしています。

このような潤沢さが回復されるほど、商品化された領域が減っていきGDPは減少していくでしょう。それを筆者は脱成長と呼び、それは、人々の生活が貧しくなることを意味しないと主張しています。

以上、人新世の「資本論」の4章から6章を私なりに要約していきました。

参考になれば嬉しいです。

About the author

衣食住、旅人本に興味がある。アウトプットメインですが読んでいただければありがたいです。

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