フィンランドの近代史ー社会と建築とデザインの関係から見る歴史2ー

0、はじめに

この記事ではデザインで有名なフィンランドの近代史、とりわけデザインや建築や都市の歴史をその社会情勢の変化から読み解いている記事になっています。デザインやフィンランドに興味のある方には面白いと思ってもらえるような記事にしていきますので、よかったら見ていってください。

今回は第2章1920-1930年にフォーカスを当てて、その歴史を見ていきます。良ければご覧下さい。

1章をまだ見ていないよという方や復習にという方はこちらをご覧ください。

では、早速1920年台からの説明に入っていきます。

1、1920年代

2−1、社会

フィンランド内戦後、フィンランドでは右翼的な勢力が力を持ち始めました。1922年には、若い学生や学者のグループがアカデミック・カレリア協会を設立し、東カレリアからの難民を支援するとともに、フィンランドの民族主義思想や自国を守る意志を強化することに従事しました。

戦間期には、木材加工産業が中心的な経済要因となり、他の分野にも活気を与えました。製紙業の拡大に伴い、各地に新しい工場や水力発電所が建設され、フィンランドの風景は大きく変わりました。また、自動車が普及したことで、田舎の生活も大きく変わりました。この10年の間での道路網の総延長距離は4万キロにも達すると言われているそうです。

2−2、都市

フィンランドは独立したことで、民主的な共和国としての地位を強調することが求められました。建築家や都市計画家には、トゥルク、ヴィボルグ、ヘルシンキなどの大都市に広い幹線道路を備えた新しい都市中心部を計画する任務を与えられます。これらの計画のどの都市にも共通していたのは、旧市街地を横切る広い新道が、均一な多層階の家々に囲まれているような計画でした。

これらの都市計画には、1920年代初頭に強まったアメリカの影響が見て取れます。アメリカの大都市の計画では、中心街の整備や、交通整理が優先されていました。この影響は、1924年に行われたヘルシンキの行政センターに関する建築コンペで最もはっきりと見られました。このコンペでは、建物はより高く、道路はより広くなり、応募作品の中には超高層ビルも含まれていたそうです。

2−3、デザインスタイル

1920年代には、さまざまな建築やデザインスタイルが古典的な表現へと再帰する動きが見られました。この動きは北欧諸国で同時に起こったため、この動きは「北欧古典主義」と名付けられています。このスタイルの特徴は、軽やかでエレガントなファサード・デザインです。ファサードはピンク、黄緑、黄色といった鮮やかな色に塗られ、花瓶、ムール貝などで装飾されたものもありました。入口は、ファサードの中央や側面に対称的に配置されていました。

すべてのデザインに共通しているのは、昔の様式を単に踏襲するのではなく、古典的な装飾をアレンジ手法です。例えば、また、1922年にツタンカーメンの墓が発見され、世界的に注目されたこともあり、古典的という意味は古代ローマの建築だけでなく、古代エジプト文明へも広がっていました。

2−4、建築物

1920年代の建設計画は、1910年に続き、住宅不足の解消や学校建設、国有の集合住宅などの改修などを目的としたものでした。また、大恐慌後には水力発電所の建設が盛んに行われ、1920年から1929年の間に発電量が8倍にもなりました。その中の1つで有名な水力発電所の一つに、国が建設したイマトラ発電所という発電所です。

フィンランドは独立時に軍隊を持たなかったため、任意の防衛隊である市民衛兵が設立されました。そのため、1925年半ばから全国各地に自警団の本部が設置されるようになります。また、交通の便が良くなったことで別荘が全国的に広がったのもこの頃でした。

2−5、住宅

1920年代初頭の深刻な住宅不足に陥っており、それにはいくつかの理由がありました。それは戦争で資材が不足して建設が中止されたにもかかわらず、地方から都市への移住は続いていたためです。タンペレやヴィボルグでは、南北戦争の戦闘で住宅が破壊されていたため、状況はさらに深刻でした。このような状況を緩和するために、州議会や市議会は、家を建てるための有益な融資政策を始めました。ヘルシンキ、トゥルク、タンペレ、ヴィボルグ、ヴァーサ、オウル、クオピオの各都市で、石造りの二階建て住宅が建設されました。この大量生産的なら建設が行われたため、大都市では1920年代に建てられた建物を簡単に見わけることができます。

例として、それまでのダイニングルームや応接室は、棚、座り心地の良い椅子を備えた多目的リビングルームに置き換えられ、中流階級の家は小さくなりました。また、組立て式の家具から組み合わせ式の家具へと変わっていったのも大きな変化のポイントです。全てのものが標準化しつつあった時代ですが、建築家たちは、個人の家や公共の場のために、しばしば個性的な家具のデザインに取り組み続けていました。

2、1930年代

2−1、社会

1929年のウォール街の大暴落による不況のため、フィンランドの輸出額は減少した。この最悪の状況下の3年間、政府は国の経済を救うために民間企業への支援を始めました。1935年にカウコパー、イマトラにある木材加工工場を持つ企業などを買収するなどしました。技術の発展と利益の増大の結果、1930年代後半には状況が徐々に好転していった。農業も、耕作地が増え、肥料が使われ始められるようになったことで、利益が上がるようになりました。

1917年に独立してから1939年に戦争が始まるまでの間に、フィンランドは自国でほとんど何も持たない状態から独自の軍隊を作るところまで発展しました。兵器に関しては、1930年代に建設された工場でライフル、火薬、大砲の生産が開始され、フィンランド国内の武器自給率は高まっていきます。1934年にはタンペレで国有ののヘルマラ飛行場と飛行機工場の建設が開始され、1938年にはユヴァスキュラにラウタポハ大砲工場が完成しました。

2−2、都市

都市計画において、それまでの数十年と比較して最も大きな変化は、新しい開放的な建築物が建設され始めたという点です。古い閉鎖的な街区はもはや望ましくないと認識され、代わりに、建築家たちは、緑が多く、開放的で、風通しがよく、明るく、衛生的な都市を計画し始めます。都市の中心部では、古いオフィスビルや住宅が取り壊され、緑地帯に囲まれた高層ビルに置き換えられたのです。

住宅地は、自給自足の町として発展することを意図して、都市の中心部以外に配置されました。これには、田園都市構想を提唱したハワードの影響がもしかしたら見られるかもしれません。しかし、実際には他の都市と同様に都市のサービスに依存する郊外になってしまいました。もう1つの当時の新しい試みは、工業的に製造されたプレハブ建築部品を使用して、すべての住宅を短期間で大量に建設するという試みでした。しかし、これはフィンランドにおいて、財政的にも技術的にも時期焦燥でした。結果として10年後にこの試みが実現できたと言えるような状況になっていきます。

2−3、スタイル

何もかもが不足していた大恐慌の時代、建築においても必要最低限のもの以外は排除されていくようになります。建築家たちは、最小限のアパートを最大限に活用する方法を考え、材料の選択にかける費用を減らしました。1920年代末に始まったこの変化は、次第にファサードの装飾が完全になくなっていくことにつながりました。この頃の建築家は、建物の外観はその機能に対応すべきだという意見を持つようになっていきます。このような考え方を機能主義といいます。この機能主義的な考えが広まったのはやはり、建築は住むための機械だと主張した世界的に有名な建築家であるコルビジェの影響があったと考えて良いのではないかと思います。

コルビジェ設計で機能主義やモダン建築の先駆けでと呼ばれるサヴォア邸(Wikipediaより)

機能主義の特徴は、平らな屋根、水平な帯状の窓、清潔で滑らかな白漆喰のファサードなどです。また、芸術性を高めるために、白い壁面に鮮やかな原色を散りばめることもありましたが、これは現代美術の手法を取り入れたものです。バルコニーの手すりやドアを赤や青などの明るい色で描くことで、白いファサードとのコントラストを際立たせることができました。また、モダニストたちは、当時の新技術や近代的な交通手段に憧れて、定期船や自動車のモチーフを建物に取り入れました。

2−4、建築物

1920年代、結核の蔓延帽子は公衆衛生を考えるにあたって最優先課題の1つでした。この病気と戦うために、全国各地にサナトリウムが建設されていきます。病院は都市の外、できれば松林の中に建てられました。機能主義者たちが重要視した光、空気、衛生といった要素は、結核との戦いにおいても必須であったため、新しい実用的な建築物はサナトリウムの計画に非常に適していました。

運動は公衆衛生の向上にも利用されました。戦間期のフィンランドでは、運動競技が盛んになり、スポーツクラブが設立され、ヴィエルマキやナストラにはスポーツ研究所が建設された。また、野外レクリエーション場に隣接して小屋が建てられたり、山間部にホステルが建てられるようになるのもこの頃です。1940年に開催されたオリンピックに向けて、このような建設がさらに増えていきました。

2−5、住宅

機能主義の特徴である開放的な建築手法は、同じ地域にさまざまな種類の住宅を建てることを可能にしていきました。住宅地には一戸建て、テラスハウス、ラメラハウス(層状の集合住宅)、などが増えていきます。この頃から建築家にとって最も重要な仕事の一つが近代的で衛生的な小さいなスケールの集合住宅の設計となっていきます。「太陽の光が届かない部屋には、すぐに医者がやってくる」という彼らのモットーはからも近代的でかつ衛生的な住宅がトレンドであったことがわかります。健康上の理由から、ラメラハウスのフラットにはバルコニーも備えられていました。実際、住宅のデザインは、展覧会が開かれるほど重要視されていました。

住まいの美しさとは、清潔さや衛生面であるという概念が生じてくるようになります。室内装飾には、鉄やクロム、タイルなど掃除のしやすい素材が使われるようになり始めます。椅子やテーブルの脚などの家具も、掃除のしやすいスチール製の筒状になっていました。また、明るく明快な色が再び流行したのもこの頃です。公共施設や個人宅では、床にゴム製のフローリングが敷かれ、掃除がしやすいだけでなく、騒音も軽減されていくようになります。

今回はここまで!次回以降にこれ以降の歴史も随時追加していきますので、お楽しみに!

また、フィンランドのデザイン文化を作った一人として間違いなく数えられるのはアアルトですが、彼の建築を説明した記事もありますので、よかったらこちらもご覧ください。前回に続き、かなりボリューミーな記事だったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

アアルト、夏の家の記事はこちら

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衣食住、旅人本に興味がある。アウトプットメインですが読んでいただければありがたいです。

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