フィンランドの近代史ー社会と建築とデザインの関係から見る歴史4ー

0、はじめに

この記事ではデザインで有名なフィンランドの近代史、とりわけデザインや建築や都市の歴史をその社会情勢の変化から読み解いている記事になっています。デザインやフィンランドに興味のある方には面白いと思ってもらえるような記事にしていきますので、よかったら見ていってください。

今回は最終章!第4章として1960-1970年にフォーカスを当てて、その歴史を見ていきます。良ければご覧下さい。

また、第1章2章、3章を見ていないよという方はこちらの方もご覧ください。

目次は以下のようになっています。

1960年代
社会情勢
都市
デザインスタイル
建築物
住宅

1970年
社会情勢
都市
デザインスタイル
建築物
住宅

ざっくりと10年ごとで区切っています。今回は第4章1960年から1970年代までを詳しく見ていきます。

では、早速も説明に入っていきます。

1、1960年代

社会情勢

フィンランドは、1950年代から始まった農業社会から工業国への移行期に大きな変化を遂げました。しかし、労働人口がフィンランドの南部やスウェーデンなどの海外に移動したため、田舎は開発から取り残されました。

世界を見ると冷戦が世界を席巻し、ベルリンの壁が建設され、1964年にはベトナム戦争が始まったのもこの頃ですが、家族を見ると、田舎の大家族に代わって、都会の核家族化が進んだのがこの頃です。女性は仕事をし、子供は保育園に預けるのが一般的になっていきます。義務教育は8年間に延長されたのもこの頃です。

また、生活水準が向上したことで、新しい消費習慣が生まれ、交通量が増えました。テレビが家庭内に浸透し始め、情報の流れや余暇に大きな影響を与えました。大体の年齢層が大人になり、学生運動やヒッピー・ムーブメント、そしてアートを通して、前世代に反発し始めた世界的な流れはフィンランドでも起っていました。

都市

建設と都市計画の両面で大きな変化が起こります。大規模な移住により、都市の境界線、郊外に新しい住宅の建設ラッシュが始まりました。一方、オフィスやビジネスは市の中心部に集中します。

そして、この時代にアルヴァ・アアルトがヘルシンキの壮大な中心都市計画を打ち出します。この計画はその後の10年間、フィンランドにおける都市計画の議論を支配することになりましたが、結果的に完成したのはフィンランディア・ホールだけでした。どこか、メタボリズム運動を想起されるような歴史の動きです。

1960年代末になると、人々は開放的な庭園付きの郊外住宅に住むことに懐疑的になりし始めます。そして、スウェーデンの例などに影響された新しい理想を掲げるようになっていきます。スウェーデンの例などに影響され、グリッドプランに基づいた効率的で高密度な郊外エリアが新たな生活スタイルの理想となっていきます。

この新たな生活スタイルの追求により、古い家屋の大規模な取り壊しは続き、伝統的な村の街並みは数多く破壊されていきました。その結果、建築物や街並みの保護という概念が生まれ、ヘルシンキのPuu-Käpylä地区のような極めて伝統的な街は保存されるようになりました。

デザインスタイル

この年代の建築は、端的に言えば質素で控えめなものが多くなりました。工業的な建築技術の発展、プレハブ建築部品の使用、社会主義イデオロギーなどが、この均一な建築スタイルに影響していると考えられています。前世代の「建築界の英雄」たちは、エリート主義であり、建築は芸術的でなければならないと説いていました。それが違う視点から見ると、スタイルを強調しすぎていると非難されることになったのです。

1960年代前半のファサードは、レンガや石膏、ファサードパネルなどで覆われていましたが、後にコンクリート製の建築部材に置き換えられました。ファサードの長さに合わせて帯状の窓を設置するのは大変な作業なので、窓枠付きのプレキャスト製の部材を製造するようになりました。この頃に建てられたコンクリート建築には木型の模様が残っていることが多いのも特徴です。

オフィスビルや公共施設のファサードには、ガラスやスチールが多く使われていました。これらの素材の形状は、教会や礼拝堂のような建物を極端に単純化させることになりました。つまり、外観からここが教会や礼拝堂だと判断することは、もはや不可能になっていきます。

建築

1960年代に起こった建設関連の出来事は、一方では膨大な量の住宅建設と広大な郊外地域の形成です。この年代の終わりには、鉄筋コンクリート造の大量に生産するというモダニストの理想が現実のものとなっていき、ほとんどの家が工業生産を念頭に置いて設計されました。そして、こうして作られた新しい住宅地には、さまざまな基本的サービスが備わっていました。このような都市計画の結果、職住分離が進み、セルフサービスの店がますます増え、店の規模も大きくなり、商品の選択肢も増えていきました。

公共施設の建設は、生活水準の向上と福祉国家としての急速な発展が影響を与えます。新しい行政や文化的な建物が必要とされ、学校や病院も必要とされました。その結果、ロバニエミ、オウルに新しい壮大な行政センターが建設されました。

また、各郡に1つずつ劇場を建設することを目標とし、1960年代にはロヴァニエミ、オウル、セイナヨキ、ユヴァスキュラ、トゥルクに新しい市立劇場が完成しました。また、建築的にも挑戦的な教会も多く建設されました。経済の発展に伴い、多くのビジネスビルや工業用ビルが建設され、景気が良くなるにつれ、より多くのビジネスや工業用の建物が建てられました。

住宅

国や自治体は、積極的な住宅政策によって住宅不足を解消しようとしていました。国や自治体は、都市の広い面積を一度に不動産投機家に渡たすことで、計画・建設を進めるように促しました。都市だけでなく小さな村にもアパートが建ち並ぶようになっていきます。設備の整った新しいアパートは、当時の多くの人にとって夢であり、そのために貯金をするという目標でした。これは日本の高度経済成長期の団地と何処となく重なることろがありますね。

プレハブ建築の結果、アパートの設計には直線的で明確な空間分割が求められるようになります。また、効率よく、人を入れるため、天井も低くなりました。内装は、掃除のしやすい安価な素材が使われます。壁は塗装か紙張り、床はゴムや寄木張りでコストカットする一方で、キッチンには電気コンロ、冷蔵庫、鉄製の流し台が標準装備されていきます。

この10年の終わり頃になると、インテリアデザインはより多くの物で構成されるようになります。大きなテレビ棚に置かれたテレビを囲むように、ソフトなソファセットが購入されていきます。当時のトレンドカラーはオレンジ、イエロー、グリーン、ブラウンで、インテリアで大量に使用されていきます。同時に未来的なデザインが流行し、当時、新しい素材であったプラスチックは、新しい種類の家具、ランプ、家庭用品に姿を変えていきました。

2、1970年代

社会

1973年に石油危機が起こり、フィンランドも不況に陥ります。その結果、失業率が上昇し、フィンランドは多額の対外債務を抱えざるを得なくなった。しかし、ソ連の石油のおかげで、東側諸国との貿易はまだ利益を上げていました。

その中には、ソ連の町コストムクシャの建設を手伝ったフィンランド人の建設労働者の労働利益も含まれていました。そして、この10年の終わりには、ロヴィイサとオルキルオトの原子力発電所で電力生産が開始されるようになります。

しかし、一方で、この頃から環境保護運動がますます盛んになり、環境保護主義者たちは、コイヤリ湖の排水に反対するために団結していきました。

1970年の総選挙では、女性、若者などの社会的弱者は、社会改革が掲げるフィンランド農村党に投票します。
その結果、市立の義務教育学校や公的医療機関などの社会改革が行われました。

この頃から社会的平等と男女平等、教育といった皆さんがイメージするフィンランドが形成されていったと言えると思います。そして、世界的にも一般の人々が海外旅行に行けるようになり、フィンランドはますます国際的になっていきました。

都市

この頃になると、移住とタワーマンションの建設は最も盛んになり、フィンランドの人口の半分以上が都市部に住むようになりました。この大規模で均質な住宅地は、建築部品産業や不動産投機家に莫大な利益をもたらしました。歩行者や子供の通路を自動車道路から分離したいという思いから、ヘルシンキのメリハカやイタパシラでは、家と家の間にコンクリートの台を設置し、その上に歩道や遊び場を設けるという手法が取られました。教育の議論が盛んになった結果かもしれませんね。

しかし、日本でもそうであったように、やがてこれらの郊外地域は、あまりにも退屈で単調だと批判されるようになっていきます。この流れからか、カタヤノッカなどでは、伝統的な中庭式集合住宅が復活していきます。これは不況のため、人々は既存の住宅を大切するようになり、結果であるとも言えそうです。

しかし、多くの歴史的建造物が修復されたが、古い技術は失われていました。古い建物の修復にアクリル塗料やプラスチック断熱材などの新素材がつかまれていましたが、そこからカビが生えることもしばしばあったようです。

デザインスタイル

新築住宅が工業的に生産されてたことは、その建築の意匠にも当然ですが表わされます。タワークレーンの能力によって、コンクリートの壁パネルの大きさが決められ、その接合部は四角くなり、それがその建築のファサードの特徴となりました。さらに、エネルギー効率を高めるために、窓は3重ガラスが普及し、側面には小さな換気窓を設けられました。

材料費や人件費を削減した結果、ファサードの表面はコンクリートがむき出しになっていますが、これもまたファサードの効率性を考えた結果生み出された意匠表現だと考えされると思います。コンクリートの壁を、砕石や石材で覆うことで、より素材感を表現しようとする試みもあったそうです。

この頃には、建築自体にも色が使われるようになり、住宅をより変化に富んだものにする試みがなされます。この色は意匠的な表現だけでなく、建物や地域全体を機能別に分割するためにも、使われるようになりました。

建築

当時の住宅の4分の1がこの頃に建設され、かつてない勢いで住宅が建設された。1970年代の初めには、主にタワーマンションが建設されました。70年代後半には一戸建てやテラスハウスが建設されました。田舎では、農場の隣に一軒家の別荘のようなものが建されるようになります現れた。

新興住宅地には、店舗や学校、さらには教会も建てられました。市立学校と公費で賄われる医療制度の結果、多くのケアセンターと学校が建設されました。

大学教育も盛んになり、古いキャンパスの拡張に伴い、様々なところで新しいキャンパスの建設が始まりました。例えば、オウル大学は典型的な例として挙げられます。

住宅

国は不況に見舞われていましたが、人々の生活水準は向上していきました。社会が家族中心になるにつれ、子供たちも自分の部屋を持つようになり始めます。リビングルームは、バルコニーに面していることが多く、家族のための部屋であると同時に、客をもてなすための部屋にもなります。この10年間で最も人気があったのは、オープンキッチンとリビングルームを組み合わせたもの平面計画でした。バスルームには、洗濯機と洗濯物を干すスペースが設けられ、バスタブの代わりにシャワーが設置されました。

雑誌では、最新のインテリアデザインが紹介され始めます。家は、モダンで機能的でありながら、住む人の個性や生活スタイルが滲み出るものでなければならないと脱画一化が叫ばれるようになりました。流行色は、茶色や緑などの砕けた色合いと、黄色などの明るい原色でした。

家具は生活のためのみならず、ファッションのために購入されていきました。プラスチックやグラスファイバーを除けば、この10年間で最も人気のあった家具の素材は、メラミンを使用したパーティクルボードでした。しかし、パイン材の家具や羽目板を使った自然で素朴なスタイルのインテリアも人気が高かったそうです。

3、最後に

以上、ここまで、4記事に渡り、フィンランドの近代史を社会と建築とデザインの関係から見てきました。ここで思うのは、大枠で見ると日本の社会情勢と語られていることがほとんど同じであることに驚かされます。人口が圧倒的に少なく、隣国情勢も大きく異なるのにもかかわらず、その建築とデザインの歴史は同じような道をと取るというのは不思議ですね。他の国の近代史も踏まえながら、建築やデザイン表現がどのように変化していったのか調べたくなりました。

以上、長々とした記事になりましたが最後まで読んでいただきありがとうございました!

About the author

衣食住、旅人本に興味がある。アウトプットメインですが読んでいただければありがたいです。

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