【書評/要約】論語入門 井波律子

はじめに

この記事では井波律子さんの論語入門について私が気になったセンテンスなどをピックアップして、その魅力を伝えています。

紹介文

論語というと少し高尚で立ち入り難い道徳本のようなきがします。しかし、この本はそのイメージを覆してくれる本です。筆者はこの本の初めにこのようなことを述べます。

『論語』がいずこにおいても色褪せない大古典として、長らく読み継がれてきたのは、単に教訓を記した無味乾燥な書物ではなく、読む者の心を揺り動かす迫力と面白さに富むためだと思われる。『論語』の魅力、面白さはその中心をなす孔子という人物の面白さ、魅力に由来する。

筆者がそう語るように、原文のままでは全く読めない漢語の文章が筆者の解説と共に読むと面白さで満ち溢れている事に気付かされます。

この書籍は500条以上ある『論語』中から「孔子の人となり」「考え方の原点」「弟子たちとの交わり」「孔子の素顔」という4つのテーマのもとに146条を選び出し収録しています。1条ごとに原文、読み方、筆者訳、解説という構成になっており最初に読む原文と解説まで読んだ後に再び読む原文では躍動感が違うことに感動を覚えます。

論語に興味があるんだけど、ちょっと近づきづらい、漢文や古典が学生のとき苦手だったなんて人も読めるような構成になっていますので、まさしく『論語入門』、そのように考えている人にはぴったりの書籍です。

印象的な文章

いずれにせよ、本質的に孔子は身も心も健やかにして明朗闊達、躍動的な精神の持ち主であった。いかなる不遇のどん底にあってもユーモア感覚たっぷり、学問や音楽を心から愛し、日常生活においても美意識を発揮するなど、生きることを楽しむ人だったのである。『論語』をじっくり読み、こうした孔子の稀有の魅力を感じとるとき、誰しも元気がわいてくるに相違ない。

先生は言われた。「書物や先生から学ぶだけで自分で考えないと、混乱するばかりだ。考えるだけで学ばないと、不安定だ」。

やみくもに読書をしたり、また先生から次々に教えを受けるだけで、自分の頭で考えないと、つめこんだ知識がふえるばかりで「閏し」、すなわち焦点ぼけしてまとまらず、混乱に陥ってしまう。かといって、ただ思索にふけっているだけで学ばないと「殆し」、つまり独善的になって客観的なとらえ方ができなくなり、はなはだ危うく不安定だというのである。学びつつ思索すること、思索しつつ学ぶことのバランスを説くこの発言は、はるか時間を超えて現代にもそのまま通じる知性論、学問論だといえよう。

いずれにせよ、孔子のおりおりの発言を収録した『論語』の言葉は、いわば断片の集積であり、このように多様な解釈を可能にする余地がある。その意味で『論語』の言葉は、膨らみと曖昧性を帯びた詩的言語に似るといえよう。

孔子は、この条で食や住に対する過剰な欲求についてはたしかに否定しているけれども、だからといって、けっして極端に貧しい生活を称揚しているわけではない。ゆたかな感性をもつ孔子は、後世の道学者のような窮屈なリゴリズムとは無縁だったのである。

孔子はここで道に志す者は必ず悪衣悪食でなければならない、と述べているのではないことに、注意したい。本書の第一章で見たように、孔子は生活美学を重んじ、食生活においても繊細な美意識を発揮した人であった。だから、ここでは弟子たちに向かって、本質的な事がらを棚上げにし、服装や食物ばかり気にして、みすぼらしくて恥ずかしいなどと思ってはいけないよ、と励ましているのである。

一見、バランスのとれた中庸のみを重んじる印象のつよい孔子が、このように真情あふれる過剰さを肯定し、共感を寄せているのは、孔子という人物の振幅の大きさを示すものとして、はなはだ興味深い。

数(算術)を指し、ひとかどの人間が身につけるべき基本的な教養とされる。孔子はこのように道、徳、仁といった精神性と同時に、礼儀作法、音楽、スポーツなど、身体性と関わる項目を含む六芸の世界に遊ぶことを理想とした。ここには精神性と身体性が車の両輪のように共存する、たくましくもすこやかな人間のイメージが浮き彫りにされている。

理想的な存在に近いが貧乏な顔回と、自由に商売して金儲けの上手な子貢に、けっして優劣の差をつけていないことが注目される。経済センスがなくて貧乏な顔回から、それとは反対に金儲けの上手な子貢を連想し、優秀な二人の弟子のそれぞれ個性的な生きかたを、あたたかく見守っているのである。

「誰とは特定されないが、弟子たちが孔子のすぐれた人となりを記したもの。ここに描かれる、穏やかさときびしさを合わせもち、犯しがたい威厳はあるけれども、たけだけしく威圧的ではなく、礼儀正しいけれども、堅苦しくはなく、ゆったりと余裕あふれる孔子のイメージは、まさに理想的な人間像にほかならない。

先生は言われた。「寒い季節になってはじめて、松や柏(ヒノキなど常緑樹の総称)がしぼまないことがわかる」。

厳冬になってはじめて凋落しない常緑樹の松や柏の強靱さがわかる。それと同様、人間も危機や逆境に直面してはじめて、その本質がわかる、というのである。諸国遍歴をつづけ、何度も苦境に陥った孔子は、危機や逆境になると、たちまち掌を返したように態度を変える人間を嫌というほど見てきたことであろう。しかしまた、そんなときにこそ、けっして流されない者の強靭さもはっきりする。苦境をへてきた孔子の経験に裏打ちされた、含蓄に富む言葉である。

「国風」を核とする『詩経』は孔子一門の教科書でもあったが、後述のように、孔子が詩とともに音楽を深く愛したことを考えあわせると、おそらくこれらの詩篇は読むのではなく、歌われたとおぼしい。子路のような武骨な弟子も、ともに歌ったり楽器を演奏したりする風景を思い浮かべると、なんとも楽しくなってくる。

いずれにせよ、楽しくうたい演奏する音楽好きの孔子の姿は、堅苦しい儒者のイメージとはほど遠く、想像するだけでも爽快な気分になる。

総じて孔子は、風に吹かれてわが道をゆく曾哲やシンプルな暮らしを楽しんだ顔回のような生きかたに、つよく魅かれていたと思われる。しかし、その一方で、孔子は、人が他者との関わりのなかで生きる社会的な存在であることを痛感していた。あらまほしき社会的関係性の構築を模索しながら、自己本来の自在な生きかたを保つこと。それは、まさしく孔子の見果てぬ夢だったといえよう。

感想

読み終えた感想はまさに紹介文で載せた筆者の言葉そのままでした。読み進めていけばいくほど、孔子という非常に含蓄に富む言葉を述べながらも人間味溢れる彼の魅力に取り込まれていき、サクサクと読めてしまうそんな本でした。

道徳的に生きるながらもリゴリズムのような過度に自分を抑制させようとはしない孔子という人物は人生を本当に謳歌するということはどういうことなのかという事を問い続けていたのではないかと思いました。

だからこそ、人間味溢れながらも現代にも通ずるような言葉をたくさん残すことができたのではないかと思います。機械化や分業化のおかげで余暇がありながらも、その機械化や分業化によってどこか人間的な生き方を見失っている現代だからこそ『論語』の言葉に胸に打たれるのかとも思いました。

あまりにもスラスラを読み進めてしまったので、2度目はサクサクではなくじっくりその文章を詩のように味わいたいとも思います。また、あくまでも入門なので、しっかりと全条掲載している『論語』を読んで見たくなりました。

みなさんも是非読んでみてください。

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About the author

衣食住、旅人本に興味がある。アウトプットメインですが読んでいただければありがたいです。

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