リトアニア・ビリニュスの観光名所17選 建築留学生が建築を中心に本気で紹介

この記事は世界30ヵ国を旅する建築学生がリトアニアのビリニュスの観光名所を建築や都市の歴史という視点で紐解いていく記事になっています。

これからリトアニアに遊びに行くよって人、建築や都市、歴史に興味があるよって人にはオススメできる記事になっているかなと思いますので、よろしければご覧下さい。

シンプルにまとめようと努力はしたんですが、結局12000字の大作になってしまいました。

ただ、他の観光のWebサイトでは知り得ないような情報もたくさん載せていますので、ここでの記事情報が何かの参考になれば嬉しい限りです。では早速参ります。

1、ビリニュスの建築をよく知るための基礎知識

ここではビリニュスの観光名所、建築を理解するための基礎情報をお伝えしたいと思います。

先に伝えておきますとここで僕が1番に伝えたいことはビリニュス、あるいはリトアニアと言い換えていいと思いますが、「中世にはとても大きな都市、国だったが、その後様々な敵国からの侵略を許してしまった。そして、独立へ。」という事です。

これがビリニュスの都市計画、および建築の歴史を見ていく中で非常に重要になるところかなと思いますが、いきなり建築を見始めるのではなくもう少し基礎情報を見ていきましょう。

既にビリニュスやリトアニアについてある程度知ってるよって人はこの章は読み飛ばしてもらっても大丈夫かなと思います。

1-1、都市人口と大きさ

まずは都市人口から見ていきましょう。ビリニュスの人口は約60万人と言われています。

これは日本で言うと千葉県の船橋市が約61万人に近いので、日本の郊外の大きな都市くらいと考えると何となく想像がつくかなと思います。

面積市域としては401km2となっており、これは横浜市が437.5km2となので、それより少し小さいくらいと考えると何となくイメージしやすいのかなと思います。

関東住みじゃないからよくわからんぞって人もざっくり、日本の大都市ほどではないけど、中都市の県庁所在地くらいの規模と考えて問題ないのではないかなと思います。

では、次にそんなビルニュス、もっと言えばリトアニアがどのように出来上がってきたのかざっくりと歴史を見ていきましょう。

1-2、超ざっくり歴史

古くから言えば、リトアニアという言葉、「Lituae」は1009年に確認されているそうですが、国として認められ始めるようになるのはリトアニアが13世紀にリトアニア大公国という国を建設した時からのようです。

その後、リトアニアは周辺諸国を征服、15世紀にには、リトアニア大公国は西欧最大の領土をもつ国となりました。16世紀にはポーランド王国と合同し、ポーランド・リトアニア共和国となります。その後、18世紀末のにポーランド・リトアニア共和国は複数国から侵略を受け、リトアニアはロシア帝国の支配下におかれることとなります。第一次大戦後の1918年にはリトアニアは共和国として独立します。しかし、第二次大戦中にソビエト連邦やナチス・ドイツからの侵攻を受け、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入されることになります。1990年代に入るとリトアニアは再び独立を果たし、2004年にはEUにも加盟し、バルト三国の1つとしての位置付けられています。

と言った流れになっています。

1番最初でも述べましたが、超超ざっくり言ってしまえば、

リトアニア大公国、

ポーランド・リトアニア共和国、

ロシア帝国の支配下

独立

リトアニア・ソビエト社会主義共和国

独立、

と大まかに言えばこのような流れになっている訳です。

これが建築のスタイルにも非常に影響していきますので、その流れを見ていきましょう。

1−3、歴史から見るまちづくり

まず、早速ですが超概要を話します。

ここで外観を理解しておいた方がこの後の詳しい説明も頭に入ってくるかなと思ったためです。

外観を最も体感的に理解するために一枚の写真を持ってきましたので、以下をご覧ください。

この写真はリトアニア大公国の始まりの地と言っても良いゲディミナス城の頂上から撮った写真です。城、もっというのであれば、旗を境に街の色が全く違うのがお分かりいただけますでしょうか?

写真左側は赤色の屋根、つまり中世的な街並みが保存されている地区になります。一方で、写真右側は灰色の屋根、つまり現代的な街並みが形成されつつある地区となります。

このように旧市街、新市街の住み分けがしっかりとなされている街なのです。

しかも、ただ単に住み分けがされているわけではありません。

先にも述べましたが、リトアニアはポーランド、ナチ、そしてソ連と様々な国の侵略に会ってきた国です。そして、そのような侵略を受けるとその侵略してきた国の建築スタイルでまちが発展していきます。

なので、旧市街、新市街それぞれの地区の中にも、ごちゃごちゃなスタイルが混じっています。

例えば、旧市街の中にも、ゴシック、新古典主義、ロココまで様々な建築スタイルが混じっていますし、一概に新市街と言ってもその中にはモダン的な建築から、ポストモダン的さらにはソ連の社会主義的な建築まで、様々な建築スタイルがコンパクトにまとまった街になっています。

つまり、皮肉にも様々な国から侵略を許し、再三の独立を果たしたことによって、都市の大きさの割に建築の多様さは他に類を見ないほどになっている。

ここがリトアニア、ビルニュスの面白いところになっているかなと思います。

では、まず歴史の古い順に旧市街から見ていきましょう!

2、ビリニュスの建築ー12-16世紀編ー

ここではリトアニア大公国、ポーランド・リトアニア共和国の時代あたりに建設された建築を紹介したいと思います。

世界遺産に登録されているところもたくさんあります。

その歴史を知って見るのと知らないので、見るのでは全く異なって見えると思いますので、この記事が参考になれば嬉しいです。

では、早速ですが、その内容に入っていきましょう!

2-1、ゲディミナス城(ヴィリニュス城) 12世紀

ゲディミナス城は写真にあるように丘の上に建てられた上宮を指します。

12世紀にリトアニア大公で城の語源のゲディミナスによってヴィリニュスの丘の上に木造の要塞が作られ、1409年にヴィータウタスによって煉瓦造りの要塞に変えられました。

リトアニアの始まりの土地として認識され、一昔前のリトアニア通貨の、リタスの紙幣にも描かれていたそうですよ。

2-2、聖霊教会1251年

この教会は1251年リトアニアにキリスト教が布教し始まった頃に建築された最も古い建築のうちの1つです。

18世紀にバロック様式により改装され、更に1996年に再建され、ロシア正教の中心的な教会になっています。近年、教皇のヨハネパウロ2世もここで祈りをささげていて本格的なバシリカ*1を採用し、初期キリスト教時代の後が残るなとわかると共に、非常にカラフルな内装でロシア正教の影響も強く残っていると感じられる面白い教会になっています。

バシリカ*1…長方形の平面をもち,内部は,中央のネイブ(身廊)と両側のアイル(側廊)に分かれ,ネイブの奥に半円形のアプスを張り出す建築スタイルのこと

因みに、このあたりの西洋建築の単語にいまいち馴染みがないよって人は私がこの本をオススメしています。


建築家の方々が同著になっており、イラストもわかりやすく、建築に馴染みがない人にもとっつきやすい内容になっていますし、建築を学んでいる人にも勉強になるところがたくさんあるほど、しっかりとした図鑑になっています。

2-3、ベルタワーと大聖堂 1387年

ビリニュスス大聖堂は、1387年、リトアニアが公式にキリスト教に改宗した年頃に、13世紀に建造されています。

その後、盛衰を繰り返す中で、増改築も繰り返されます。その中で様々な建築の様式のエレメントが施されます。15世紀にはゴシック様式、16世紀にはルネッサンス様式、さらに17世紀にはバロック様式で再建されます。

18世紀の後半にはドーリア式円柱が特徴の新古典主義様式が採用されます。

まさにリトアニアの歴史が詰まっている建築と言っていいと思います。

2-4、聖アンナ教会とベルナルディン教会 1495-1500年

聖アンナ教会は、15世紀末から16世紀初頭に建てられた教会です。

中欧と北欧における後期ゴシック建築の最も代表的な例の一つと考えられており、ファサードには、33の異なる寸法のレンガが使用されています。

1812年、ナポレオン軍が弾薬庫を設置し、捕虜をここに収容したため、教会内部は激しく破壊されました。19世紀後半には、教会の隣、写真の右側のネオ・ゴシック様式の鐘楼が建てられました。

ベルナルディン教会は聖アンナ教会に隣接する教会でゴシック様式が主流ですが、ルネッサンスやバロックの影響も見られます。

ソ連占領下、当時、教会は倉庫として使われていました。
1994年には修道士が戻り、荒廃していた教会内部の修復が始まり、現在に至ります。

このようにビルニュスの侵略と独立を物語るような歴史がある2つの教会です。

2-5、夜明けの門 1503年-1522年

この門は元々は、ヴィリニュスの南にあるクレヴァ (Krėva) 城からメディニンカイ (Medininkai) 城に続く門であったことから「クレヴァ門」や「メディニンカイ門」と呼ばれていました。

この門の中に入ると旧市街地に入ったと言うことになり、16世紀から攻撃から街を守り、旅行者を祝福する場所としての役割を果たしていました。

この門の他にも街には9つ門がありましたが、現存しているのはこの門だけです。

門の中にあるチャペルには聖母マリアの肖像が展示され、様々なキリスト教の宗派を超えて非常に重要な肖像として認識されています。

2-6、ヴィリニュス大学 1579年

創立は1579年で中央ヨーロッパで3番目に古く、歴史ある大学です。

リトアニアの中では最も権威ある大学として認識され、日本で言う東大的な立ち位置になります。

建築的な視点としてはバロック様式の建物が非常に美しいです。

敷地内にある12の中庭はどれも個性豊かで大学内が少し迷宮のようになっているところも面白いところです。

私は休日に行ったため、内部は見学できなかったのですが、中には素敵なフレスコ画が残り、多少のお金を支払えば見学も可能だと言うことです。

詳しくは以下の記事にまとめられているので、わかりやすいかなと思います。

https://tabitori.blogspot.com/2018/12/VilniusUniversity.html

2-7、聖ペテロ パウロ教会 1668-1674

聖ペテロ パウロ教会はリトアニアの後期バロック様式を代表する建築です。

外装に7年、内装には何と30年の年月が費やされたとされています。

イタリア人ジョヴァンニ・ピエトロ・ペルティとジョヴァンニ・マリア・ガッリが内装を担当し、建築と彫刻の調和を図り、約2000点の彫刻が”theatre of the world”と言う劇をモチーフに配置されています。

上の写真は建物内部ですが、その凝った天井の様子がわかるかと思いますが、実際に見るとされに迫力がある仕上げになっています。

以上、たくさんの建築を紹介してきましたが、もっと13−16世期の建物の詳細をみたいという人は以下のページを参考にしてみてください!

このページには非常に多くの教会建築を始めとした観光名所がまとまっていますので、参考になります。

ただ、これから紹介するソビエト時代の建築や現代の建築も気になるよって人はまた戻ってきてくださいね笑
では、続いて、ソビエト時代の建築に移っていきましょう!

3、ビリニュスの建築ー近世編ー

ソ連時代の建築はかなり特殊な建築形態をしています。とても幾何学に忠実で、どこか近未来的な形をしています。

ただ、その近未来像がいかにも1900年代の近未来像だなって感じでどこか懐かしさすら覚えます。

そんなソ連時代の建築がビリニュスにはたくさんあります。その一例を見ていきましょう。

3-1、名もなきビル

まず、私がビリニュスに引き込まれたこのビルから紹介致します。

とても幾何学な形状で建築自体も魅力的なのですが、それ以上に魅力的なのが建っている場所とのコントラストです。

上の2つの写真をみてもらえば、わかると思いますが、ここは2000年以降の独立後に急速に再開発が行われた地区で、より有機的な曲線を持つ現代的な建物が乱立する地区にポツンとこのビルは建っています。

どこか、ディストピア感を感じざる得ない雰囲気を漂わせながら建つソ連の建築、日本では絶対にみられない風景なので、観光地って感じではないですが、建築好きならぜひ訪れて欲しい場所の1つです。

3-2、ソビエトの団地

ヴィリニュスの郊外に少し出ると、ソビエト時代の建物が何百、もしかしたら何千!?と並ぶ団地に着きます。

大学学部時代の講義である先生がソ連のような社会主義国のアパートは個人の部屋や狭く、共用スペースが広く、思想が反映されていると言うようなことを行っていたのが、やけに頭に残っています。

残念ながら住居者以外が中に自由に入ることは許されませんが、もしチャンスがあれば住民に声をかければ中を見せてもらえるチャンスがあるかもしれません。

この建築がそのような計画になっているかはわかりませんが、外装のユニークな形とそれが乱立する姿を見るだけでも建築好きにはたまらん光景かなと思います。

因みにその、ある先生が執筆した都市論の本もすごく面白くて、こう言う風に近代都市ってできてきたんだと歴史がわかりやすく追える本になっているので、オススメです。

3-3、テレビ塔 1974年-1980年

ヴィリニュスTVタワーは、ヴィリニュスのカロリニシュケ小地区にある高さ326.5メートルの塔で、リトアニアで最も高い建造物です。

タワーは1974年5月31日に着工し、1980年12月30日に完成しました。建設資金はソビエト連邦第11次5カ年計画で、当時のリトアニアSSRへの戦略的投資のための資金として計上されたものだそうです。

建物の地上部分を見ると、ソ連ぽさがなんとなくにじみ出ていますよね。

地上165mの展望台には、レストランがあり、市街地とその周辺の美しい景色を眺めることができます。

さらにこのレストラン、全体が中華テーブルのようになっていて自動で回る仕掛けになっており、同じ席に座っていても時間によって違う眺めを楽しむことができます。

この仕掛けも建築や機械好きならたまらない仕掛け、体験かもしれません。高いところや酔いやすい人には少し大変かもしれませんが笑

3-4、オペラ・バレエ劇場 1955年

The ソ連の建築という感じのオペラ・バレエ劇場です。

オペラ・バレエ劇場の最初の計画案は1955年に提出されましたが(建築家R・ゲガタス)、設計作業自体は1962年にN・ブチウテが現在の計画の最初の変形を提出してから開始されました。

特徴的なボリュームは横長の観客席と立ち上がる舞台装飾の「箱」の2つの主要部分から構成されています。

これにより、ソ連ぽさ、言い換えるのであれば荘厳なムードを建築に持たせています。

3-5、カルチャーセンター 1971年

これまた、ソ連感満載の建築。

どこか暴力的とも思われせるほどに堂々としたこのユニバーサルホールはネリス川の右岸沿いに建っており、当時多くの建築的議論を引き起こしました。

コンクリート製の長方形の建物は、表情豊かな造形的シルエットで、上部が上方に曲がっているのが特徴です。

観客席のトリビューン。この建物はオリジナルのステイ構造で、あらかじめ応力がかけられたコンクリート打ちっぱなしの上に

鋳造コンクリートフレーム(オリジナル・エンジニアリング・ソリューション賞受賞)。ロビーには、大きな木製のスカルプが飾られている。

ガラス張りのメインファサードはネリス川に面し、支持壁、スロープ、階段は低層部に設置されています。

これは、リトアニアで唯一のこのタイプの建築物であり、ヨーロッパに特徴的な7~8世紀の建築を反映しているそうです。

3-6、政府庁舎 1982

リトアニア政府庁舎もどことなくロシアの雰囲気が残る建築になっています。

建物は大きなブロックで構成され、その前には広い中庭を持つ建築です。

外観の表情は豊かで、メインファサードの窓は、ポストモダンの手法で明暗のリズムに遊び心を持って配置されています。

後期モダニズムとポストモダニズムの表現手法、そしてその中に隠れるロシア的なデザイン。

まさに当時の時代を象徴するかのような、既存環境との適合が図られた、当時としては最も興味深い建築の一つです。

以上がソ連時代のリトアニアの建築になります。

いかがだったでしょうか?形態的に面白い建築ばかりで一見の価値はありかなと思いものばかりです。

因みにもし、このような社会主義圏の建築に興味がおありの方はラナ・サトルさんや星野藍さんの写真集はとても興味を一読の価値ありの写真集かと思いますので、是非チェックしてみてください。

では、ここからいよいよ独立後の建築たちをみていきましょう!

4、ビリニュスの建築ー現代編ー

ここ数年、リトアニアは経済停滞の続いており、中々日本と比べるとどうしても現代建築の面白さは目劣りしてしまうのが、正直な感想です。

しかし、そんな中でもいくつか興味深い現代建築は存在しますので、ご紹介します。

4-1、再開発地区

2002年から2011年のヴィリニュス戦略計画にあるように、ネリス川の右岸は野心的な再開発の主なターゲット地区となっています。リトアニアの首都の新しい中心地として、最も重要な行政機関、ビジネス街、商業施設を備えた近代的な市街地の開発が計画されています。

日本で言うところの西新宿のような場所でしょうか?

高層建築が乱立し、バブル建築的なユニークな形の建物がたくさんあるこの地区も建築好きにとってはリトアニアの現在の経済成長を感じ取れる場所になっていると思います。

4-2、Swedbank Development Vilnius

この建築はその再開発地区の中でも特に特徴的な建築の内の1つです。

この銀行のオフィスビルの特徴は、一般市民がアクセスしやすい開放的な空間があることです。

建物内部、歩行者専用道路(旧ウクメルゲス通り)と建物1階の流れる空間は、公共的な都市空間として計画されています。

建物は、15階と16階の2棟の高層棟と、低層棟の2棟から構成されています。

低層棟は折れ線状の形態と通常の4階建ての管理棟で構成されている。この折れ線状の形態部分は、4500m²を超えるテラスとなっており、川岸の素晴らしい眺望を提供しています。

4-3、National Art Gallery 1971-1980 & 2003

ヴィリニュスにあるリトアニア国立美術館(LNGA)の建物の主な特徴は、もともと1968年に革命博物館のために設計されたものであったことです。1971年に着工し、1980年に竣工しました。

建築家は、透明なガラスの壁に巨大な直方体の石のボリュームを優雅に配置し、博物館をネリス川の右岸に見事に融合させています。

革命記念館として存在した期間は短いものでした。1991年、展示品はリトアニア国立博物館に収蔵され、建物の所有権はリトアニア美術館に移管された。1993年以降、リトアニア国立博物館は、リトアニアの民芸品などの展示にこの建物を使用します。これらの展示やその他の臨時美術展示は1999年まで続けられましたが、建物の状態が悪くなったため閉鎖されました。

2002年、リトアニア共和国政府は、旧革命博物館の建物に国立美術館を設立するプロジェクトを開始しました。その1年後、建物の再建と拡張のための建築コンペティションが発表され、リトアニアから8人の建築家が参加した。優勝した建築家の提案は、建物の元の構造を維持したまま、新しい空間と新しい材料を追加したものでした。

こうしてこの建築は、60年代のモダニズム建築と21世紀の新しい技術的進歩を総合し出来上がったものなのです。

4-4、MO Museum of Modern Art

最後に紹介するのは日本語でいうところの現代美術館のような場所MO Museum of Modern Artです。

中世の歴史的な街並みから少し離れた場所にある新しい公共広場を備えた3,100平方メートルのこの美術館は、『ヴィリニュスの過去と現在を表現する』を1つのコンセプトとして建っています。

MO美術館は、18世紀のグリッドと中世の城壁都市をつなぐ文化的な「ゲートウェイ」として構想されています。コンセプトは、歴史的な門、(恐らく夜明けの門)からインスピレーションを受け、形と素材の両方において地元の建築を参照しています。

直線的な外観のファサードは、この街の地元の素材を参考に、光り輝く白い漆喰で覆われています。 美術館に近づくと、美術館と対角線上に交差するドラマチックなオープン階段が現れ、ミニマルなファサードと対照的な表情を見せてくれます。

階段はファサードを切り開き、道路と美術館の上層をつなぐことで、内と外を行き来する開放的な空間を生み出しています。 階段の上部には、階段状のオープンエアーの屋根があり、パフォーマンスやトークなどの集いの場として利用されています。

5、最後に

以上、ビリニュスの代表的な建築を歴史の流れから見ていきました。

最後にもう一度超ざっくりまとめると

1、12-16世紀 建築 教会メイン いろいろな様式

2、ソ連支配の特徴的な建築 社会主義的な形態からモダニズムへ

3、現代建築 経済発展の萌画

こんな感じでしょうか?

もちろん、これは私のあくまで一意見なので、ご指摘等ございましたら是非、この記事にコメントいただければ非常にありがたいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

ではでは。

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衣食住、旅人本に興味がある。アウトプットメインですが読んでいただければありがたいです。

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