フィンランドの近代史ー社会と建築とデザインの関係から見る歴史3ー

0、はじめに

この記事ではデザインで有名なフィンランドの近代史、とりわけデザインや建築や都市の歴史をその社会情勢の変化から読み解いている記事になっています。デザインやフィンランドに興味のある方には面白いと思ってもらえるような記事にしていきますので、よかったら見ていってください。

今回は第3章1930-1940年にフォーカスを当てて、その歴史を見ていきます。良ければご覧下さい。

また、第1章、2章を見ていないよという方はこちらの方もご覧ください。

第1章

第2章

目次は以下のようになっています。

1940年代
社会情勢
都市
デザインスタイル
建築物
住宅

1950年
社会情勢
都市
デザインスタイル
建築物
住宅

ざっくりと10年ごとで区切っています。今回は第3章1940年から1950年代までを詳しく見ていきます。

では、早速も説明に入っていきます。

1940年代

社会

1940年代初頭から1950年代にかけて、フィンランドとソビエト連邦の間では冬戦争と継続戦争(The Winter War Continuation Wars )が起きていました。そして、この戦争は直接的にも間接的にも社会に大きな影響を与えました。

戦争の影響で深刻な食糧不足に陥り、田舎の人も都会の人も同様に影響を受けました。厳しい財政状況の中、政府は小規模な農場の設立を奨励することを決定したため、戦時中とその直後の数年間、主な建設事業は田舎に集中しました。

継続戦争の後、フィンランドの建築家たちは、ほとんど不可能とも言えるような仕事に直面していました。どういうことかと言いますと、膨大な量の建設事業を請け負う必要があったのです。爆弾による被害を修復するだけでなく、避難民のために新しい家を建てなければなりませんでした。さらに、戦争で何年も放置されていた工事がまだ残っていました。避難民のためにどのような家を建てるか、国が戦費を負担するために新しい工場や発電所をどのように設計するかなど膨大な量の建設事業を請け負っていたため、戦地から戻った建築家の責任は重大でした。

都市

1940年代、都市計画家はより大きな統一体を考慮しながら設計することが求められました。市や町の新しい計画を立てる際には、周辺の田園地帯や都市部のことも考慮しなければならなく、かつ都市計画は、将来のニーズに対応できるように、可能な限り柔軟に作られることが求められていました。

復興期に作られた都市計画は、河川敷の計画と連動していました。1940年代には、オウルヨキ渓谷、キメンラアクソ、コケマエンヨキ地域の計画が始まりました。これらの地域では、戦時中にソ連に奪われた重要な工場や発電所を代替するための計画が立案されていました。また、戦争で大きな被害を被ったラップランドでも、新たに大規模な計画が進められていました。

デザインスタイル

1930年代後半から、機能主義の誇張された合理主義への反発と考えられる建築スタイルの変化が起こっていました。それは、行き過ぎた機能主義のに対する反動で、この自由で土俗的な建築の関心は、戦時中に高まっていきました。建築家は、風景の形を真似て、あるいは周囲の環境に溶け込むように家を設計していきます。

1930年代後半には、建物のファサードに彫刻やレリーフが再び見られるようになります。バルコニーや手すりなどにも再び、装飾が施されるようになります。機能主義の特徴であり、コルビジェが提唱した近代建築の5原則の1つでもある水平連窓は、ガラスが不足していたために、そしてフラット・ルーフもアスファルトが不足していたために建設することが極めて困難な状況でした。平屋の代わりに、勾配屋根、寄棟屋根、切妻屋根など伝統的な形態の屋根が建設されるようになりました。最も人気のある素材の1つはスレートで、ファサードの装飾や床材として使用されていました。

また、スレートは暖炉や煙突にも使われました。1940年代には材料が不足していたため、壁を作る際には安価な材料を使わざるを得ませんでした。質の悪い材料を使っているので、多くの家の壁の表面は荒い漆喰で覆われていた。スタッコには、1920年代のように裏打ちされたものや、コテで滑らかに仕上げられたものの他に、「ラフキャスト」と呼ばれるものがあります。ラフキャストとは、砂利や膨張した粘土を漆喰に加えたものです。材料不足のため、塗料の選択肢も減っていたのです。ファサードは、緑や黄色、赤黄土などの自然な色の石灰塗料で塗られることが多くなりました。

これら材料不足を補うために伝統的な材料、形態が再注目された結果、土俗的な建築の関心が広まっていったと考えられます。

建造物

第二次世界大戦中にフィンランドで建設された壕は、ヨーロッパの他の地域で建設された要塞に比べて控えめなものでした。しかし、その控えめさが特徴的だとも言えます。軍が地形を利用する知識と意志を持っていたからこそ成し遂げられたものだと言えます。壕の主な建材は木材でしたが、継続戦争が進むにつれてコンクリートも使われるようになっていきました。

仮設住宅の建設以外でも、戦時中は建築家たちは忙しく働いていました。というのも、いくつかの重要な工場や発電所が国境の向こう側に行ってしまった、つまりソ連に取られてしまったからです。また、多くの教会は、焼失したり放火されたりしており、さらに講和条約でソ連に奪われたものもありました。新しい教会は、すでに戦時中か戦後すぐに建てられました。この10年の終わりには、公共の建物の建設も盛んになり、オフィス、学校、病院、そして最終的には大学までもが大規模に建設されていくようになります。

住宅

当時の戦争で疲弊したフィンランドにとって、住宅不足が最大の問題の一つでした。恒久的な住居を失っていたのは、爆撃で家を失った人たちももちろんですが、カレリアからの43万人の避難民でした。和平条約締結後、カレリアからの避難民に加えて、ペッツァーモやポークカラの避難民も加わり、住宅不足は逼迫の問題でした。その結果、戦後、人口の11%がホームレスとなった時期もあったほどです。

ここからの復興には、建築家や都市計画家の手腕が試されることになりました。労働力も資材も不足しており、工事量も膨大であったため、工業的に製造された木造住宅の連続生産を開始するしました。戦時中、建築家は木造の一戸建て住宅を設計していました。様々な選択肢の中で、最も人気があったのは、切妻屋根の1.5階建て住宅、通称「ベテランズ・ハウス」と呼ばれるものです。戦後のフィンランドでは、この「ベテランズ・ハウス」ような住宅が約7万5千棟建てられたと推定されています。

社会的な素材枯渇は、室内装飾にも表れていました。絨毯やカーテンは、紙と木というありあわせの材料で作られるほどです。籐製の家具も当時は一般的になりました。公共の建物や個人の家では、様々な種類の木のラス材がパネル材として使われました。また、戦火が下火に向くと、暖炉が復活し、家の中に居心地の良い空間を作り出し始めるようになりました。しかし、電気の配給制が導入されていたため、暖炉は必要に応じて薪を使って家を暖めていたため、ここでも木は実用的な役割も果たしていました。

戦火の一方で1940年代の造形は、それまでの10年間に比べて、より遊び心のある自由なものになっていました。手すりやバルコニーに使われている細い軸鋼は曲線を描き、大工はドアハンドルをまさに芸術品のように仕上げた。ダークウッドのコーヒーテーブルやタバコテーブルは、キドニーやパレットの形をしていました。花をモチーフにした金属製の装飾が人気を博し、建物の内外に様々な植物を飾ることで、建築に自然を取り込もうとしました。

1950年代

社会

1950年代、フィンランドは農業国から近代的な工業国へと変貌を遂げました。皮肉なことにも、この急激な変化をもたらしたのは、フィンランドがソ連に支払わなければならない戦争賠償金であり、工業生産を可能な限り効率化する必要があったためです。最後の支払いは1952年9月に行われました。同年、フィンランドでは夏季オリンピックが開催されましたが、これはフィンランドで開催されたイベントの中でも最も盛大なものの1つであったと評されています。

それにもかかわらず、食品の配給は1954年まで続きました。1956年の1月にはポークコラがフィンランドに返還され、3月1日にはウルホ・ケッコネンが大統領に選出されました。その翌年にはフィンランドのマルカの価値が下がり、フィンランドは自由な経済とグローバル社会へと移行していきます。

都市

1950年代には、都市部に大規模なビジネスセンターが建設されました。この当時の都市計画家は都市中心部には、他の地域よりも多くのオフィスビルやビジネスビルが建つべきだという考えを持っていたからです。これらの新しい都市センターをできるだけオープンな形で建設したいと考えたため、古い閉鎖的なブロックを取り壊し始めました。このような過度に効率的な建設により、多くのかけがえのない都市の一体感が失われたのも事実です。その好例として良くあげれらるのが、ハーメーンリンナやヴァーサという町です。

住宅地を計画する際には、都心から離れて自然に近い場所、つまり森の中の郊外が理想でした。しかし、1950年代初頭の住宅地は、その後の住宅地よりも市街地に近い場所に建設されていました。しかし、一方でヘルシンキ地域では、住宅建設は急速に中心街の外へと移っていきました。

1950年代には、ヘルトニエミ、マウヌラ、ムンクキヴオリ、ポホイス・ハーアガ、ロイフヴオリなどの様々な地区での建設が始まっていました。この時期が日本で言う高度経済成長期のようなものなのかもしれません。

スタイル

1940年代に盛り上がった自然的な考えは一旦影を潜め、1950年代、建築は再びシンプルさと美しさを追求し、目立つことよりも日常生活の快適さが重要視されていきます。機能主義はこの頃には強く根付いており、明確な合理的思考は自明のことと考えられていたようです。その一方で、個性や自由な表現も重視された。これらの特徴は、特に教会建築など明確な合理的思考の枠を飛び越えなければいけない建築には、力強く彫刻的な形に現れていました。代表的な建築家としては、アールノ・ルースヴオリやヴィルヨ・レヴェルなどが挙げられます。

この時期あたりからアルヴァ・アアルトは、フィンランドの建築家の中でも代表的な存在となっていました。1950年代の初めから、当時の彼が建築に使う主な素材は赤レンガでした。他の多くのフィンランド人デザイナーと同様に、アールトは地域の特性と国際的なモダニズムを融合させることに長けていました。戦後、この素材に対する洗練された理解、個性とシンプルさの組み合わせは、フィンランド建築のトレードマークとなり、世界的に有名になりました。

建築物

1945年から1950年の間にフィンランドでは60万人以上の子供が生まれたため、学校の建設は復興期の最も重要な課題の一つとなっていました。国が支援する小学校の必要性は特に高いものでした。建築家は教師と協力して、新しい教育方法に適した学校を計画し始めました。その結果、校庭に隣接した複数階建ての学校は、景観に合った低層の建物に置き換えられ、その規模は子どもの大きさに合わせ建設されました。

1950年当時の人口 (populationpyramid.netから引用)

1950年代には、ショッピングセンターが新しいタイプの建物として登場しました。そのルーツはアメリカにあり、1930年代には早くもその種の第一号がオープンしていました。そのため、フィンランドでは1950年代まで、フィンランド語の「オストスケスクス」ではなく、英語の「ショッピングセンター」という言葉が使われていました。フィンランドでショッピングセンターが登場したのは、1954年に食料の配給が停止されてからです。さらに、都市の成長と貿易の活発化に伴い、多層階のデパートの建設が始まったのもこの頃からです。

住宅

都市への大移動の結果、都市の人口は地方の人口を上回りました。住宅生産の中心は、復興期の「軍人の家」からアパートへと移っていきました。都市部では複合ビルが建設され、中心市街地の境界には郊外の森が広がっていました。ファサードの素材や建物の高さを変えて、均質な市街地や郊外に様々なタイプの住宅が建設され始めたのも1950年代の特徴です。レンガ造りでもコンクリート造りでも、アパートは漆喰で塗装されていました。漆喰の塗り方にはコテで塗られた滑らかなものとラフキャストのものが2大メインの塗り方でした。漆喰の表面には、レンガ、波型鉄板、クリンカー、木材、ミネライトなどが散りばめられていました。時には、粗い漆喰のファサードに、窓の周りに滑らかな白塗りの枠を作って装飾することもありました。

1950年代になると、部屋の高さが低くなり、支持構造が軽くなったため、住宅はより有効に利用されるようになりました。建築家は、1平方メートルをどのように使うべきか、細心の注意を払わなければならなりませんでした。計画の結果、多くの平面計画が似たようなしかし、効率的なものになります。その計画は家族の子供や年配者のための小さなベッドルームがキッチンにつながった大きなリビングルームを囲むようなものです。そしてダイニングセットは、キッチンかその近くに置かれていました。

古いものと新しいものを組み合わせたインテリアデザインが1950年代には盛り上がります。1950年代になると、リビングルームの家具はカンバセーション・グループやラウンジ・スイートと呼ばれるようになり、色や材質の異なる椅子、ソファ・ベッド、コーヒー・テーブルなどで構成されるようになっていきます。ラジオやレコードプレーヤー、そして1950年代の終わりにはテレビも置かれるようになり、それらは本棚か、そのために特別にデザインされた棚や面に置かれるようになります。軽い椅子やサイドボードの脚部には、細いスチールパイプにラッカーを塗って黒く仕上げたものが使われることもあったそうです。

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衣食住、旅人本に興味がある。アウトプットメインですが読んでいただければありがたいです。

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